ケント州にある堀に囲まれた美しい中世のお城、ヒーバー城を訪れました。
ここは、チューダー朝時代の王ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブリン(Anne Boleyn)が子供時代を過ごしたお城です。
Contents :
アン・ブリンの実家は14世紀のお城「ヒーバー城」

ケント州にあるこのヒーバー城は、14世紀に建てられたお堀と城壁に囲まれた要塞でした。
15世にアンの祖父ジェフリー・ブリンが購入し、城のオーナーとなりました。祖父が亡くなると、アンの父トーマス・ブリンが城を相続し、アンたちは家族でノーフォークからここに移り住みました。
アンは12歳でヨーロッパの宮廷に送られるまで、ここで過ごしました。

お城の入口に至るアプローチには、ガーデナーさんが制作したうさぎやカメなどの形をしたユニークな植栽があり、目を楽しませてくれます♪

お城の周りにお堀があるのは、日本も同じですね。
お堀にかかる橋を渡ってヒーバー城の中に入ります。

中世のお城らしく、落とし格子があり二重三重に門があります。

ヒーバー城は1383年に建築されて以来、数々のオーナーによって所有されてきました。1903年にはアン・ブリンとヒーバー城の歴史に興味を持ったアメリカ人大富豪ウィリアム・ウォルドルフ・アスターがこの城を購入し、アンの時代(チューダー時代)の栄華を取り戻すと決意。多額の資金を費やしてリノベーションを行いました。
今日このようなチューダー様式に蘇った姿が見られるのはこの大富豪のお陰です。城内には彼が購入した歴史的価値のある骨董品も多く残されています。
ホールの壁面にはチューダー様式の特徴であるオーク材がふんだんに使われ、細かな彫刻で装飾されたパネルは実に見事。天井もハンプトン・コートなどで見られるチューダー様式の天井が再現されています。
ブリン家は1462年から1540年までここを所有していました。
アンと弟のジョージが1536年にヘンリー8世によって処刑された4年後に、ブリン家はこの城の所有者ではなくなりました。ヘンリー8世によって没収されのでしょうか、その1540年からは彼の4番目の妻となったアン・オブ・クリーブス(Wife no.4, Anne of Cleves)に離婚の慰謝料として贈与されています。
彼女はたくさんの不動産を贈与されましたが、住んだのはこのヒーバー城だったようで、ここには17年間いました。


ホールには、ヘンリー8世とその息子エドワード6世、スペインのフェリペ2世(ヘンリー8世の娘メアリー1世の夫)など数々の肖像画の他に、ウィンストン・チャーチルがこのヒーバー城で描いたという絵も飾ってありました。
実はウィンストン・チャーチルはこのヒーバー城の近くのチャートウェルという所に住んでおり、アストンの息子ジョン・ジャコブと仲が良く、お互いの屋敷を行き来していたりしたそうです。
絵を描くのが趣味だったウィンストン・チャーチルは、ヒーバー城のイタリアン・ガーデンでこの絵を描きました。
チューダー時代を再現「The Great Hall(大広間)」

このダイニングには、外国製のタペストリー(当時は非常に高価なもの)が飾られ、大きな暖炉を囲むファイア・プレースの石には見事な彫刻が施されています。

リノベーションに使用されたオークはすべてイギリス原産で、アンの出生地とされるノーフォークのBlickling Hallからのものも含まれているそうです。
アン・ブリンの部屋

意外にも小さくて暗いアン・ブリンの部屋。アンはこの窓辺で、ヘンリー8世からのラブレターを読んだのでしょうか♡
アンは、ロンドンを襲った発汗病または粟粒熱(Sweating Sickness)の症状が出始めた時、このヒーバー城に戻って隔離生活を送りました。
粟粒熱とは謎の伝染病で、発症すると24時間以内に死に至る恐ろしい病だったそうです。


ヘンリーと王妃のキャサリン・オブ・アラゴンも、ロンドンから離れ隔離生活を強いられました。この時すでにアンにぞっこんだったヘンリー8世は、自分の2番目に優秀な医師をアンの元に派遣しました。
アンの家族は弟と父もこの粟粒熱にかかり重篤な状態に陥りましたが、幸運なことに全員が完治しました。


ヘンリーがアンに送った手紙が展示されていました。ふたりの名前の間に♡マークがあります。少年か・・・
アン・ブリンと正妻キャサリン・オブ・アラゴンの祈祷書の比較


この時は、アン・ブリンの祈祷書が、キャサリン・オブ・アラゴンの祈祷書との対比という形で特別展示されていました。
アン・ブリンはヘンリー8世の2番目の妻ですが、キャサリン・オブ・アラゴンは、ヘンリー8世の最初の妻です。つまり、アンは正妻キャサリンを追い出して女王になったという関係性です。
2人は同じ祈祷書の違う写本を持っていたそうです。どちらも基本はラテン語で書かれており、一部英語になっているそうなのですが、キャサリンは、ラテン語のページに使用した跡(キスをしたり、文字を指でなぞったり)が残っているのに対し、アンは英語のページにより多く使用の跡が見られるということでした。(これについては、のちの所有者の影響もある、とのこと)
スペインの王家出身の王女だったキャサリンは、伝統的なラテン語の祈祷書を好む熱心なカソリック信者でした。一方、アンの方は宗教改革に興味があり、英語で書かれている方を好んだということで二人の違いを紹介した展示でした。
また、アンの祈祷書の方は、よりカラフルで、テキストの部分はゴールドのフレームで装飾されており、キャサリンを追い出し女王に上り詰めた自分自身の栄華を誇るような派手な写本だとのこと。確かに、若干ですが派手ですね。
正妻キャサリンを追い出したアンの運命
正妻キャサリンは、アンとヘンリー8世によって宮廷を追われ、財政的支援も受けられず、田舎でみじめな暮らしを強いられる嫌がらせを受けました。一人娘のメアリーは、アンによって庶子(私生児)の身分にされました。
しかし誇り高いスペイン王家出身のキャサリンは、どんなに冷遇されても自分はヘンリーの正式な妻であり、正当なイギリスの女王であるとの主張を曲げませんでした。
娘のメアリーもイギリスの正式な女王は母のキャサリン・オブ・アラゴンだという主張を曲げませんでした。アンは、キャサリンと娘メアリーが会うことを禁止しました。キャサリンは、たった一人の子メアリーに会えないままこの世を去りました。
アンの登場によって、一方的に離婚され女王の身分を剥奪された正妻キャサリンは、貧しさと悲しみの中で亡くなりました。王妃としてウェストミンスター寺院に埋葬されることも許されず、地方の教会Peterborough Cathedral にひっそりと埋葬されました。墓碑には「イングランド女王」ではなく、「アーサー王子の未亡人」と書かれていました。
一方、女王志願のアンは、ヘンリーに男子出産を約束し、キャサリンと離婚できるようバチカン支配のローマ・カソリック教会からイギリスを離脱させ、プロテスタントのイギリス国教会を作らせました。そしてついにキャサリンを離婚させ、女王の座を手に入れました。
宮廷では疎まれ誰ひとり味方のいないアンでしたが、男子の世継ぎを産みさえすれば、どんなに嫌われていようが王位継承者の母として立場は盤石になったかもしれません。
しかしながら、ヘンリーに約束した男子を出産することはありませんでした。
女児をひとり(エリザベス)産んだ後はなかなか妊娠せず、ヘンリーを苛立たせます。3年目に再び妊娠しましたが、流産してしまいました。
よりによってその子が男の子だったことがわかり、ヘンリーの苛立ちは頂点に達しました。(因みにこの子は奇形だったともいわれています。)
この流産が決定打となりヘンリーはアンを見限り、次の妻を探し始めます。ヘンリーの側近でありフィクサーのトーマス・クロムウェルは、ヘンリーの望みを叶えるため、不要になったアンにでっち上げの罪を着せ、裁判で有罪にすると4日後には死刑執行という早さでこの世から抹殺しました。
皮肉なのは、アンも突然の逮捕されたあと、娘のエリザベスにも家族にも、もちろんヘンリーにも二度と会えなかったということです。(因果応報ですか…)
1536年5月19日、アンはロンドン塔内にて処刑されました。
イギリス史上初めての処刑(斬首)された女王となりました。
それはキャサリンの屈辱的で悲劇的な死からたったの4か月後のことでした。(略奪妻の運命は、昔からやはり悲惨…)因みに男児を流産した日は、キャサリンの葬儀の日でした。
父のコネでフランス宮廷へ
ヘンリーをメロメロにしたアンの魅力は、フランス風のマナーと教養でした。何故なら、アンの容姿はお世辞にも良い方ではなかったからです。
アンは、子供時代をここヒーバー城で過ごしましたが、10歳を過ぎると外交官を務める父のコネで、当時最先端で最も洗練されていたといわれるLow Country(現在のオランダやベルギー)の宮廷に預けられることになりました。
アンはそこで、さほどの良家出身でないにもかかわらず、Margaret of Austriaという王妃に仕える幸運を手にすることができました。当時の宮廷では、良家の子女たちがこのようにして宮廷に住まい、音楽・ダンス・会話など様々な上流階級としてのスキルを学ぶ慣習がありました。
彼女らに混じって、最高の環境を手に入れることができたのです。聡明で明るかった12歳のアンは、Margaret of Austriaのお気に入りの侍女となりました。
その後1年ほどして、アンは姉のメアリーと共にフランスの宮廷に移りました。そこでアンは7年間過ごし、20歳前後の1522年イギリスに戻ってきました。
フランス宮廷帰りのアンは、フランス語を流ちょうに話し、フランス風の優雅で成熟した身のこなしと洗練された教養を身に着けていました。宮廷では最先端のフレンチ・ファッションを披露し、一際目立つ存在となったのです。
ヘンリー8世を夢中にさせた7年間


お世辞にも美人とは言えない容姿のアンでしたが、自分の意見を言うのに物怖じせず、フランスの魅力を振りまくアンにヘンリーはすっかりノックアウトされました。1526年頃までには、ヘンリーはアンに夢中になっていたそうです。
ヘンリーは、アンを自分の愛人にしようとし、手紙や高価なプレゼントを贈り続けました。しかし、ヘンリーの愛人だった姉メアリーがあっという間に寵愛を失って捨てられた様子を目の当たりにしていたアンは、愛人になることを拒否し続けました。
自分を手に入れたいのなら、正式に結婚して「王妃」にして欲しいというアンの主張はここから始まりました。
ブリン家の姉妹を描いた映画「The Other Boleyn Girl」(ナタリー・ポートマン、スカーレット・ヨハンソンW主演)があります。この映画で、ヘンリー8世を巡る二人の関係が描かれています⇩
ヘンリーは王妃のキャサリンとはおよそ25年連れ添いましたが、ふたりは男子の跡継ぎ作りに失敗していました。前述したように、成長した子供は娘メアリーひとりだけだったのです。
6歳年上のキャサリンとの間に、この先子供が生まれるとは考えられません。父ヘンリー7世が興したチューダー王朝を継続させるためには、どうしても男子の王位継承者が必要でした。

キャサリンは当時ヨーロッパ最大&最強だったカソリック教国スペイン王家の出身でした。非常に熱心なカソリック信者であるキャサリンにとって、禁止されている離婚は決して受け入れられるものではありませんでした。
イギリスも元々はカソリック教国でした。カソリックでは離婚(結婚も)の際にはバチカンのローマ法王の許可が必要でした。ヘンリーと側近(あるいはフィクサー)のトーマス・クロムウェルが、あれこれ理由を作り離婚を申請しましたが、何年かかっても離婚は認められませんでした。(それもそのはず、キャサリンの甥は神聖ローマ帝国の皇帝チャールズ5世だったのです。)
ヘンリーが最終的に離婚できたのは、その頃新しくイギリスに入って来たルターの宗教改革からヒントを得て、プロテスタントに宗教変えし、ローマ・カソリックの支配から離脱したからです。
ここまでなんと7年かかっていました。7年間!そんなに長い間、ヘンリーの心をとらえ続けていたアンにも、待ちぼうけを食わされてもアンとの結婚に突き進んだヘンリーにも驚きです。

よってアンとヘンリーのここヒーバー城での物語は、この7年の間の事ということになります。
粟粒熱の流行でアンを失いかけたヘンリーは、ますますアンとの結婚を望む気持ちが強くなったと言われています。
ヒーバー城近くにお城を持っていたヘンリーは、そこからアンに逢いに来ていたと思われます。ヒーバー城では、ヘンリー8世が宿泊したと思われる部屋が見学できます。
王&王妃の肖像画が並ぶ「The Long Gallery(ロング・ギャラリー)」

ブリン家が去ったあとすぐ、ヘンリーはこの城を離婚した4番目の妻アン・オブ・クリーブスに与えました。
ヒーバー城にロング・ギャラリーをインストールしたのは、このアン・オブ・クリーブスでした。ここには、チューダー朝の王や王妃の肖像画がずらっと並んで展示されています。

この4番目の妻アン・オブ・クリーブスが、ヘンリーの6人の妻の中では最も運が良かったとされています。

ドイツ人で大柄なアン・オブ・クリーブスを、ヘンリーは気に入りませんでした。ヘンリーはアンと離婚し、自分の妹ということにしました。
しかしヘンリーに気に入られなかったお陰で、暴君ヘンリーと距離を置くことができ、しかも多額の慰謝料で悠々自適に暮らせたのです。
もし、結婚生活を続けてヘンリーの気に食わないことでも起これば、その時は過去の王妃たちのように悲惨な運命を辿ることになったでしょう。彼女は6人の妻の中でただ一人、平穏無事に生き延びることが出来たラッキーな女性でした。
一方、ヘンリーに彼女との結婚を勧めたトーマス・クロムウェルは、ヘンリーの怒りを買って処刑されました…。
中世のお城の階段

ブリン家もヘンリー8世も使ったであろうヒーバー城の階段。この階段を使って、中庭に出ることが出来ます。
中世のお城の階段は石で出来ていて、狭くて急なものが多いです。そして螺旋階段になっています。手すりなしでは怖くて絶対に降りられませんね。
さて、ヒーバー城にはこのほかにも、アスターが使っていた部屋やお城らしく拷問道具の展示など、他にもいくつか見学できるお部屋があります。アン・ブリンとは関係がないので省略しました。



トイレはなかなか使用が難しそうですね…。⇗
アン・ブリンゆかりのお城「ヒーバー城」。英王室史ファンなら、必ず訪れたい歴史的サイトです!
このお城は、お堀に囲まれて「ザ・お城!」な雰囲気があって素敵なのはもちろんですが、意外にもよく手入れされた広い庭園が予想以上に素晴らしく感激しました♪
庭園のあちこちではアイスクリームやドリンクの販売もありますし、ピクニックも楽しめます。ファミリー向けのイベントも多く、一日中どの年齢層の人も楽しめる憩いの場所ともなっているようでした。
ヒーバー城では、同じエステート内にチューダーの世界にタイムスリップ出来るようなアコモデーション(宿泊施設)やゴルフコース、ウェルネス施設などもあります。
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★ヒーバー城 Hever Castle & Gardens Info.
Hever Castle & Gardens | Visit Hever Castle located in Kent
info@hevercastle.co.uk
+44 (0)1732 865224
アドレス: her road, hever, edenbridge, TN8 7NG