
ロンドンの西、テムズ川を挟んでキュー・ガーデン(Kew Gardens)の反対側にあるサイオン・ハウス(Syon House)。かつてここには、巨大な「シオン修道院 <Syon Abbey>」が建っていました。
チューダー王朝のヘンリー8世が亡くなった時、ウィンザー城へ向かう葬儀の列はここで一泊することになりました。
しかしここはかつてヘンリー8世が宗教弾圧を行った場所でした。サイオン・ハウスの展示パネル他を参考にして、ここでのストーリーをまとめてみました。
Contents :
ヘンリー8世とアン・ブリンの無理やり結婚の犠牲者たち
|アン・ブリンはイギリスを永遠に変えた女性


チューダー王朝の国王ヘンリー8世には、生涯に6人もの妻がいました。彼が次々と結婚するきっかけを作ったのが、2番目の妻アン・ブリン<Anne Boleyn>でした。
イギリスは他の多くのヨーロッパの国と同様、ローマ・カソリック教会を頂点とするカソリックの国でした。しかし、カソリックでは離婚が許されていませんでした。
ヘンリー8世と20年連れ添った最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間には王位継承者となる男児がいませんでした。父ヘンリー7世の創設したチューダー王朝を存続させるためには、彼にはどうしても男児の王位継承者が必要でした。
そこへ現れたのがフランス宮廷で育ち、当時最先端だったフランスの魅力を振りまくアン・ブリン。イギリスに帰国し、王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となって宮廷に現れたアンにヘンリーは夢中になりました。アンに自分の愛人になるよう高価なジュエリーのプレゼントを添えてアプローチし続けました。しかしアンは、自分の姉メアリーがヘンリーの愛人になった後いとも簡単に捨てられた様を間近で見ていたので、どんなに高価なプレゼントをもらっても、どんなに情熱的なラブレターをもらってもヘンリーの申し出は断り続けていました。
ヘンリーは自分に夢中だと確信したアンは、ヘンリーの下心を上手く利用し、焦らし続けました。愛人にはなりたくないアンは、自分との性交渉を望むなら、自分を王妃にして欲しいとヘンリーに告げます。アンは、自分ならキャサリンと違ってヘンリーに男児の跡継ぎを産んであげられると約束し、ヘンリーにキャサリンとの離婚を考えるよう促しました。
どうしても男児の跡継ぎが欲しいヘンリーは、キャサリンとの離婚を考えるようになります。しかしイギリスは離婚が許されないカソリックの国。ヘンリーは腹心のトーマス・ウルジ―(枢機卿)に命じて、バチカンのローマ教皇に離婚の許可をもらおうとします。しかし何度申請しても無駄でした。

カソリックではそもそも離婚が不可能なことに加えて、神聖ローマ帝国の皇帝チャールズ5世(当時世界最強だったスペインの国王でもある)は妻キャサリン・オブ・アラゴンの甥にあたる人物でした。離婚が承諾されるわけがありません。
ヘンリーとウルジ―は7年間ローマ法王の承諾を得るべくトライしましたが、徒労に終わりました。この離婚問題は ‘King’s great matter’と呼ばれ、国王にとっては解決すべき大問題なのでした。問題解決に失敗したウルジ―は逮捕され死刑が言い渡されました。命乞いをしたウルジ―でしたが、ストレスのあまり処刑前に急死しました。
ウルジ―に代わってヘンリーの右腕となったのはウルジ―の後を継いだトーマス・クロムウェルでした。彼は法律家でしたが、ウルジ―同様ヘンリーのフィクサーとなりました。彼は当時ドイツから入って来たルターの宗教改革に目を付け、これを離婚問題の解決に利用しようと考えました。何故なら、ルターの宗教改革とはローマカソリック教会を腐敗したものと唱え、彼らの支配を受けない「プロテスタント」という新しい宗教を提唱していたからです。
アンは、新しい宗教プロテスタントでは宗教の保護者であり頂点にいるべきは、ローマにいる教皇ではなくその国の君主である、と説いてある書物をヘンリーに読ませます。
ヘンリーはこれに大いに影響を受け、これぞ自分のために書かれた書物であると喜びました。キャサリンとの離婚を成立させるため、自分を教会の頂点とする「イギリス国教会」を新設し、自分の思い通りに離婚できるようにしました。
この宗教改革に伴って、プロテスタントに改宗しないカソリック教会や修道院を次々に壊滅させ、僧侶たちを拷問にかけていったのです。
|シオン修道院の司祭たちに対する処刑

現在のサイオン・ハウス。 ©楓香
カソリック教国だったイギリスでは、突然のプロテスタントへの改教を受け入れられない宗教関係者は当然ながら沢山いました。そんな彼らの教会や修道院はトーマス・クロムウェルが派遣した男たちによって財産を没収され徹底的に破壊されました。今日イギリスのあちこちで廃墟となっている巨大な教会跡があるのはこのためです。
サイオン・ハウスの地下にある、かつての「シオン修道院 <Syon Abbey>」や「サイオン・ハウス <Syon House>」にまつわる数々の歴史を物語る展示室はとても面白いです。
シオン修道院の歴史を紹介した展示パネルによると、シオン教会の司祭リチャード・レイノルズともう一人の牧師、それにシオン教会の神父たち3人は、ヘンリー8世がプロテスタントの「イギリス国教会」を創設した際、国王を教会の最高位(Spreme Head)と認め忠誠を誓う宣誓書への署名を拒否したことで処刑されていました。
Oathと呼ばれる宣誓書への署名を拒否した人間は誰であれ、トーマス・クロムウェルによって次々に処刑台に送りこまれました。かつてはヘンリーのメンターで彼が尊敬してやまないトーマス・モア(「ユートピア」の作者)は、敬虔なカソリック信者でした。そのため、ヘンリーがどんなにチャンスを与えて彼を生かそうとしても、信念に従って宣誓書への署名を拒否し続けました。万策尽きたヘンリーは仕方なく彼を処刑しなければなりませんでした。

ヘンリー8世をイギリス国教会のSupreme Head と認めない宗教関係者に対する処刑は特に凄惨を極めるものでした。
彼らはTraitor(トレイター・国家反逆者)扱いとなり、Traitor に対する処刑は「Hang, Drawn, and Quartered」というものだったからです。つまり、処刑地タイバーンまで馬で引きずり回されたのち、首を吊られ、まだ生きているうちに降ろされると、内臓をえぐり出され火あぶりにされ、手足を切断され、最後に首を切り落とされるのです。
シオン修道院の司祭リチャード・レイノルズの処刑は、5人の中で最後に行われました。目の前で仲間が次々と残忍に処刑される様子を見せるためです。最後に彼を処刑すると、トーマス・クロムウェルは見せしめと警告のために、シオン修道院の門の上にレイノルズの首を置き、晒し首にして放置したと言われています。

シオン修道院は、イギリス国内でも最も大きく美しく長い歴史ある修道院のひとつだったそうです。ウェストミンスター寺院ほどの大きさがあったと言われています。今日見られないのはとても残念です。
ヘンリー8世とアン・ブリンの結婚をめぐっては、結果的にイギリスは素晴らしい歴史ある荘厳なカソリック教会/修道院を失いました。カソリックの教会は、プロテスタントの教会より数倍美しいと言われています。
超肥満体ヘンリー8世の死亡

大量の殉教者を出した宗教改革を行っておきながら、アン・ブリンとの結婚生活はたった2年半で終わりを告げました。
約束した男児を産まないアンが邪魔になったヘンリーのイライラを察したトーマス・クロムウェルは、ある日突然グリニッジ宮殿にいたアンを逮捕しロンドン塔に連行しました。そして有罪ありきの裁判を行い死刑判決を下すと間もなく処刑しました。連行から処刑まで17日という早さでした。
ヘンリーはその後4人の妻を娶りましたが、結局産まれた男児はひとりだけでした。ヘンリーの生存中に生き残った妻はたったひとりでした。
そんな暴君ヘンリー8世が亡くなったのは、1547年1月28日の丑三つ時。ウェストミンスターのホワイトホール宮殿にて。55歳でした。
かつてはスポーツ万能でハンサムだった長身のヘンリー8世。しかし、晩年は過食から超ド級の肥満体となり、傷口が腐った脚は数メートル先までも悪臭を漂よわせるような醜い中年男になっていました。
彼が死亡したことは、死亡後3日間秘密にされました。生きているかのように装うため、食事もいつも通り運ばせました。4日目になってようやく9歳の息子エドワード(3番目の妻ジェーン・シーモアが出産。彼女は産褥熱で12日後に死亡。)が、エドワード6世として即位することが宣言されました。
ヘンリー8世のウィンザー城への葬列が始まったのは、それからさらに2週間たった2月14日でした。
ロンドンのチャリング・クロス <Charing Cross>(トラファルガー広場近く)から埋葬地ウィンザー城のセント・ジョージ・チャペルまでの道のりを、Chariot(馬で曳く戦車)に棺を乗せて運びました。
ヘンリー8世は身長190㎝、ウェスト130㎝、体重140〜180㎏ほどあったと言われています。超ウルトラ肥満体の彼の遺体を収める棺もスーパーサイズだったに違いありません。
一行は途中にあったこのシオン修道院跡で休憩をとりました。ヘンリー8世の巨大な棺は、臨時で設えた霊柩台の上に置かれました。
そこで、更にロンドン司教らによってミサが行われたあと、一行は休みをとりました。
予言が現実に…

翌朝になると野犬が棺の周りにいるのが発見されました。
ヘンリー8世の膨張した遺体から出る腐敗物質が棺から染み出していて、野犬がそれを舐めていたのです。
実は1535年、アン・ブリンとの婚姻中、Francisca 教会の修道士ウィリアム・ピート(William Pete)という人物が、「神の審判がヘンリー8世に下り、彼の血は犬に舐められることになるだろう」という予言をしていました。
この予言が現実になったというわけです。(予言をしたピートは国外追放)
死亡後に犬に舐められるというのは、修道院への冒涜に対する神の裁きだとみなされています。
3番目の妻ジェーン・シーモアのとなりに安置される
野犬事件のあった翌朝、再び葬列はウィンザーに向けて出発しました。
ヘンリー8世の棺は、ウィンザー城のセント・ジョージ・チャペルに予定通り運ばれました。遺言により、棺は先に死亡していた3番目の妻で唯一男児を産んだジェーン・シーモア<Jane Seymour>の棺と並んで安置されました。

写真(聖ジョージ・チャペルの見取り図)の14番(オレンジ色)のところに、ヘンリー8世の石板があります。およそ100年後、彼の棺の右隣りには清教徒革命によって英国史上唯一処刑された国王チャールズ1世の棺が置かれました。
その時重いヘンリー8世の棺を動かしたからでしょうか?、それとも遺体の爆発によるものでしょうか?棺が損壊しています。蓋がぐちゃぐちゃになったまま放置されている様子は、発見から数年経った1888年に記録されています。2m近く身長のあったヘンリーの棺が、身長150㎝のチャールズ1世の棺とあまり変わらない大きさで描かれているのはナゾです..。

しかしこれほど有名なヘンリー8世が、父王のような立派な霊廟(ウェストミンスター寺院「ヘンリー7世チャペル」)も建てられず、それどころか地上に墓すらなく、今も地下の埋葬室で壊れた棺の状態で放置されたままだとしたら、やはりあの世で罰が当たっているということでしょうか…。フィクサー、トーマス・クロムウェルもきっと…。
\「ヘンリー8世」のお墓になるはずだった○○は、今どこで誰が使っている? /
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🏰おまけのウィンザー城情報🏰
余談ですが、チャペル見取り図の6番はエリザベス2世が父ジョージ6世のために増設した「ジョージ6世チャペル」です。ここに両親(ジョージ6世とクィーン・マザー)と妹のマーガレット王女、エリザベス2世と夫のフィリップ王配が眠っています。
女王の崩御後、ウィンザー城の見学が再開された初日に、ジョージ6世チャペルのエリザベス2世の墓前に参拝してまいりました。ジョージ6世チャペルは扉が開かれ、女王のお墓は眩しいほどの照明に照らされ、はっきりと見られるようになっていました。朝11時ごろまでのスロットを購入すれば、長蛇の列に並ばずにすぐに参拝できると思います。
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★サイオン・ハウス Syon House Info.
☆パティオ、オランジェリー、ロング・ギャラリーは映画・ドラマの撮影地として度々登場
☆エステート内に、ヒルトン・ホテル、トラウト・フィッシング、ガーデン・センター、森林学校、カフェ&ショップなどいろいろ施設あり。
☆アドレス:London Road, Brentford, TW8 8JF, United Kingdom