英国史上初めて処刑された国王「チャールズ1世」|Royal Execution at The Banqueting House

英国史上初めて処刑された国王「チャールズ1世」

チャールズ1世 画像:Wikimedia Commons/Public Domain

1649年1月30日14時少し前、チャールズ1世 <Charles I>は、当時の天才画家ルーベンス <Sir. Peter Paul Rubens> に描かせた天井画の下を、衛兵に囲まれながら処刑台に向かっていました。

1646年5月、市民戦争の末オリバー・クロムウェル <Oliver Cromwell> 率いる議会派軍に捕らえられたチャールズ1世は、1649年1月27日、公開裁判で有罪判決を受けました。そして3日後のこの日が死刑の執行日でした。チャールズ1世は、英国史上初めて、処刑された国王となりました。

5年間で200万人もの死者を出した市民戦争を起こした国王チャールズ1世は、裁判で ‘tyrant, traitor, murderer and public enemy’(暴君であり、反逆者であり、殺人者で民衆の敵)と宣告され、死刑を言い渡されたのです。

\チャールズ1世が処刑に至った「清教徒革命」/⇩

処刑場「バンケティング・ハウス」は「王権神授説」を描いた建物

|イギリスで最初のパラディアン様式の建物

バンケティング・ハウス<Banqueting House>  撮影:楓香

バンケティング・ハウスは、チャールズ1世の父ジェームス1世 <James I> の仮面舞踏会 のために建築されました。設計はイタリア帰りの建築家イニゴ・ジョーンズ <Inigo Jones> でした。(1622年)

当時、バンケティング・ハウスがある場所一帯には、ヨーロッパ一大きな宮殿と言われたホワイトホール宮殿 <Whitehall Palace> がありました。(その後火事で焼失)

建築家イニゴ・ジョーンズは、イタリアで学んできだパラディアン・スタイル <Palladian style> をバンケティング・ハウスに取り入れ、イギリスで最初の古典様式の建物を建築しました。

イニゴ・ジョーンズはまた、仮面舞踏会用のためのコスチュームもデザインしていました。

広告

|「王」という絶対的なパワーと神聖性

撮影:楓香  仮面舞踏会の衣装:バンケティング・ハウスの展示より

バンケティング・ハウスでは、贅を尽くした仮面舞踏会が夜ごと開かれていました。

舞踏会は、詩やダンス・音楽を組み合わせた演劇的要素と、特殊効果を施した舞台装置によって、幻想的な風景が作り上げられていました。フルに趣向を凝らした舞踏会は、想像を絶するほどお金をかけた貴族たちの贅沢な遊びでした。

女性たちは高価なジュエリーやコスチュームで着飾りました。男性たちは国を代表する紳士・諸侯のエリートのみが集まりました。

豪華絢爛なこの仮面舞踏会は、すべてが国王ジェームス1世のためにパフォーマンスされたものでした。彼は、まるで神のように王座に座り、仮面舞踏会のパフォーマンスをを愉んだそうです。

そんな湯水のようにお金を使って王に捧げられる舞踏会を見て育った息子「チャールズ1世」は、「王」という存在に絶対的なパワーと神聖性を信じるようになりました。

チャールズ1世「王権神授説」 肖像画美術館にて筆者撮影

|父「ジェームス1世」を称えたルーベンスによる天井画

ジェームス1世/肖像画美術館にて筆者撮影

ジェームス1世は、ジェームス6世として1歳からスコットランドの王位に就いていました。1603年、子供がいなかったイギリスの女王エリザベス1世が亡くなる直前に、王位継承者として血縁者であった彼を指名したため、英国王として迎えられたのです。

代々スコットランド王として君臨してきたスチュアート王家には「王は神によって選ばれ、神だけが王を支配できる」という信奉がありました。いわゆる「王権神授説」です。

やがて父から王位を継承した息子チャールズ1世は、このバンケティング・ハウスの天井に、父ジェームス1世を称え「王権神授説」を祝福する画を、当時最高の画家と言われたルーベンス<Sir. Peter Paul Rubens >に依頼して描かせました。

その天井画には主に3つのテーマがあったそうです。

1.父ジェームス1世による平和な統治(王座の上)- ピースメーカーとして描かれた父ジェームス1世。

2.神格化された父ジェームス1世(中央の楕円形)- 栄光の雲の中を昇天していく父ジェームス1世。

3.スコットランドとイングランドの合一(ドア付近)- スコットランドとイングランドのふたつの国を治める父ジェームス1世。

コミッションを受けたルーベンスは、天井画の制作を本人の地元ベルギーで行いました。完成した天井画は船でイギリスに運ばれ、バンケティング・ハウスに設置されました。(1636年)(この時、計測の仕方の違いで、作品が枠より大きく描かれていたため一部はカットされたそうです。)

因みに、バンケティング・ハウスのHPによると、チャールズ1世によるルーベンスへのコミッション料は£3,000(現在の£218,000で約73倍)だったそうです。

広告

「清教徒革命」により破滅への道へ

プライベートでのチャールズ1世は、品が良く道徳観念もある好人物だったと言われています。洗練された趣味を持ち、美術・芸術に造詣が深かった彼は、1,400点に上る絵画、約400点の彫刻などを芸術家から購入し、彼らを支援していました。(それらのコレクションは、現在英王室のThe Royal Collectionの重要な所蔵品となっています。)

とりわけ彼がルーベンスにコミッションしたこの天井画は、現在ルーベンスによる天井画で唯一、設置された当時のまま残っている大変貴重なものとなっています。

ただ彼は、身体が小さく(身長約150㎝)、どもりがあるコンプレックスで、身内以外の人間との関係をうまく築くことができませんでした。恥ずかしさを隠すために、横柄で傲慢不遜な態度をとってしまうため、人望がありませんでした。

そして、この態度がやがて自らを破滅に追い込んでいくことになりました。

「王権神授説」を絶対だと信じ、その通りに生きようとする彼は、自分の思い通りにならない議会を力づくで制しようと、王党派を率いて市民戦争を引き起こしました。(1642-46年)結果として、戦争の終盤司令官として台頭してきたオリバー・クロムウェル<Oliver Cromwell>が率いる議会派軍に敗戦を期してしまいます。敗者となったチャールズ1世は、国王でありながら捕らえられ囚人の身となってしまいました。

画像:Wikimedia commons/public domain/オリバー・クロムウェル

議会を尊重するよう国王に促すも、頑なに態度を変えようとしようとしないチャールズ1世。しびれを切らしたオリバー・クロムウェルは、国王を公開裁判にかけました。裁判によって、市民戦争の責任が王にあることを公明正大に証明するためでした。裁判の結果、国王には有罪判決が下り、処刑が宣告されました。(1649.1.27)

捕らわれてから裁判になるまでには約3年間ありました。その間に、議会を尊重するよう考えを改めることができていたなら、処刑という結果には至らなかったはずです。しかし、チャールズ1世は「王権神授説」が絶対だと信奉するあまり、議員が国王である自分と議論することさえ受け入れられなかったのです。

チャールズ1世の処刑は、ロンドン塔ではなくバンケティング・ハウス<Banqueting House>前で行われることになりました。あとにも先にも、バンケティング・ハウスで処刑が行われたのはこの一度きりです。

天井に父「ジェームス1世」と「王権神授説」を祝福する絵が描かれたバンケティング・ハウス。オリバー・クロムウェルが、ロンドン塔ではなくここを王の処刑の場に選んだのは、「君主制」の終わりを国民に知らしめる意図があったのです。

チャールズ1世は、’He should be put to death by the severing of his head from his body.’ (斬首による死が相当)という裁判命令を受け、3日後の死刑執行が決定されました。

広告

1649年1月30日処刑当日

チャールズ1世 画像:Wikimedia Commons/Public Domain

1649年1月30日、処刑当日は真冬の凍るように寒い日になりました。

チャールズ1世は、処刑の恐怖に震えていると思われることを避けるため、厚めのシャツを1枚追加でリクエストしました。その上に黒のクロークを羽織りました。

その日の朝は、チャールズ1世自らカーテンを開け、

”I have great work to do today”(今日は大仕事が待っている。)

と言ったというエピソードが残っています…。

朝10:00、セント・ジェームス宮殿にいたチャールズ1世は、衛兵にとり囲まれながら、ホワイトホール宮殿に向かいました。隣りには司教Juxonがいました。一団はセント・ジェームス公園を歩いて横切りました。

午後1時、ホワイトホール宮殿で召喚を待っていたチャールズ1世に、処刑台に移動するよう告げる使者がやって来ました。

ホワイトホール宮殿の中を通り、バンケティング・ハウスに入っていきます。自分がコミッションして描かせたルーベンスの天井画を最後に見ながら、王は何を思ったでしょうか…。

バンケティング・ハウス前の処刑台は、1階の高さ(日本では2階)に造られ、柱は黒い布で覆われていました。

バンケティング・ハウスにあるチャールズ1世の胸像  ©楓香

処刑を目撃した人の記録によると、チャールズ1世はバンケティング・ハウスの端に開いた穴から外に設置された処刑台に出てきたそうです。そしてそれは、現在の建物の左端、階段の部分にあたるそうです。(部屋に入った王は、バンケティング・ハウスの一番奥の窓から処刑台に向かったというエピソードもあります。)

現在はその場所にチャールズ1世の鉛製の胸像が置いてあります。18世紀後半か19世紀始めに造られたもので、処刑から300年後の1949年に胸像を取得し、翌1950年に設置されました。

チャールズ1世の胸像  ©楓香

処刑台まで来ると、チャールズ1世は司教に自分のガーター勲章を手渡しました。チャールズ1世は、この時司教Juxon に ‘I go from a corruptible to an incorruptible crown; Where no disturbance can be, no disturbance in the world’ と言ったと伝えられています。日本語的には、’私はこれから朽ちることのない王座のある世界へと旅立つ。そこでは決して王座が妨害されることはないのだ’といった感じでしょうか。要するに王権神授説が実行できる場所へ旅立つのだ、ということだと思います。

チャールズ1世は、王らしく勇気を持って潔く処刑に臨みました。

リネンのキャップを被ると、自ら低い斬首台に頭を乗せました。

短い祈りの言葉のあと、心の準備が出来たら合図を送る、と処刑人に伝えました。(この日、公式の処刑人は姿を現わさず、代理人による処刑となりました。)

少しの間のあと、王は両手を横にサッと伸ばしました。それが合図でした。処刑人の一振りで、王の首はバッサリときれいに切り落とされました。

広告
バンケティング・ハウス前で行われたチャールズ1世の処刑 画像:Wikimedia Commons/Public Domain

時刻は午後2時でした。バンケティング・ハウスの向かいにあるホースガーズ・パレード<Horse guards parade>の時計は、王が処刑された午後2時を記念する黒いマークが付けられています。。。

+ + + + + + + + + +

|国王亡き後のイギリス

チャールズ1世の遺体を見つめるクロムウェル 画像:Paul Delaroche Wikimedia Commons/Public Domain

王が処刑され「君主制」が廃止された後、オリバー・クロムウェルを護国卿とする「共和制」政治が始まりました。クロムウェルの政治は、国民にまったく人気がありませんでした。クロムウェルは、あらゆる庶民の娯楽を禁止し、クリスマスでさえ質素に過ごすように強制しました。君主制を否定した本人でしたが、権力を手に入れるとまるで王になったかように振る舞い始めました。議会制でありながら、護国卿の身分を自分の息子に世襲させました。この息子には父のようなカリスマ性もなく、指導者になる素質が少しもありませんでした。いわゆるボンクラ息子で、彼が議会からも支持を失ったおかげで共和制は終わりを告げることになります。

国民の王を求める声も日増しに強くなり、議会はオランダに亡命していたチャールズ1世の息子「チャールズ2世」を王として迎えることにします。チャールズ2世は、イギリス国王であることを宣言し、熱烈な歓迎を受けてイギリスへ戻ってきました。「王政復古」(1660年)です。オリバー・クロムウェルの死(1658.9.3)から、2年も経っていませんでした。

「陽気な王」と言われたチャールズ2世でしたが、殺された父の敵を討つことを忘れたわけではありませんでした。彼は王になって間もなく、クロムウェルら父を処刑に導いた議員たちへの復讐をしっかり果たしました。

チャールズ1世処刑の話の続きは、別のポストに書きました。そちらをご覧ください。

\息子チャールズ2世のクロムウェルへの復讐はどんなものだったのか/⇩

★バンケティング・ハウスへ行こう! Banqueting House Info.

☆トラファルガー広場 <trafalgar square> からウェストミンスター寺院 <Westminster Abbey> に行く途中の左手にあります。

☆アドレス: バンケティング・ハウス – Google マップ

☆現在、ガイドツアーでのみ見学可能(日にち限定)£12.5(投稿日現在)