チャールズ1世が死刑判決前に子供たちと面会していたサイオン・ハウス|Imprisoned King Charles Ⅰwas able to visit his children at Syon House

このところ、ロンドン西部にあるサイオン・ハウス (Syon House) で起こった歴史的出来事の記事をいくつか書いています。

サイオン・ハウスはチューダー王朝時代からの有力貴族ノーサンバランド公爵のロンドンの自宅であり、リッチモンド宮殿やハンプトン・コート宮殿から地理的に近いことから、様々な王室の歴史の舞台になったとても興味深い場所です。

スチュアート朝時代には、英国史で唯一の国王の処刑という衝撃的な出来事とも無関係ではありませんでした。何故なら、その国王「チャールズ1世」は幽閉中、ハンプトン・コートからここサイオン・ハウスを度々訪れていたからです。

今回は、その「チャールズ1世」のエピソードをまとめて書きたいと思います。

\「チャールズ1世」はなぜ死刑されたのか/

「絶対王政」に固執するチャールズ1世、市民戦争を起こす

チャールズ1世<King Charles Ⅰ> 画像:Wikimedia Commons/Public Domain

誉れ高いスコットランド王家のスチュアート家に生まれたチャールズ1世は、「王は神によって選ばれし者。神だけが王を支配できる」という”The Devine Right of Kings”の教義を父から受け継いで成長しました。

いわゆる「王権神授説」です。

彼は、国王だけが法を作る権利を有し、最も良い統治方法は国王による独裁であると、心の底から疑いもなく信じている国王でした。

しかしスコットランド王だった父のジェームス1世(スコットランドでは6世)がイングランドの国王として迎えられ兼任することになった時には、彼はイングランドの国民や議会に受け入れられるよう努力をしました。しかしその息子チャールズ1世(二男・スペアだった)にはそのような努力が出来ませんでした。

国王としての絶対的パワーだけを主張し、更に身体的コンプレックスやどもりによる恥ずかしさの裏返しで、他人と良い関係が築けず、傲慢で頑固な態度をとり続け、衝突ばかり繰り返していたのです。

”議会”というシステムがありながら、絶対王政を敷こうとした時代遅れの国王は、とうとう力づくで議会を打ち負かすという手段に出ることに。1642年8月、チャールズ1世は王党派を率いて兵を挙げました。長く続く市民戦争の始まりでした。

最初の2年間はチャールズ1世率いる王党派が各地で勝利していました。ところが、最新の戦法を実践するオリバー・クロムウェルが議会派軍の指揮を執るようになると、次第に議会派が各地で勝利を収めるようになり、ついには1646年王党派は敗北してしまいました。

チャールズ1世は、勝利したオリバー・クロムウェルによって身柄を拘束されることになりました。

サイオン・ハウスに引き取られるチャールズ1世の子供たち

チャールズ1世の年長の子供5人 画像:Wikimedia Commons/Public Domain

市民戦争が始まって間もなく、長男のチャールズ(のちのチャールズ2世)はオランダに亡命しました。母のヘンリエッタ・マリア<Henrietta Maria>は子供たちを置いて、すぐに母国フランスに亡命してしまいました。

両親がいなくなったチャールズ1世の子供たちは、サイオン・ハウスに引き取られました。サイオン・ハウスの主第10代ノーサンバランド伯爵アルジャーノン <<Algernon, 10th Earl of Northumberland >が、国王チャールズ1世の二男ジェームス < James, Duke of York >(のちのジェームス2世)とその下の幼い子供たちの父親代わりとして、彼らの保護を任されました。

囚人となったチャールズ1世ですが、ロンドン塔や監獄ではなくハンプトン・コート宮殿の中で軟禁生活を送ることになりました。軟禁生活中、テムズ河を渡ってすぐのところにあるサイオン・ハウスを訪れ、狩りをしたり子供たちに逢ったり食事をしたりすることが許されていました。

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サイオン・ハウスに残る国王親子の肖像画

撮影:楓香  サイオン・ハウス/The red drawing room

軟禁中のチャールズ1世がサイオン・ハウスに子供たちを訪ねてきた時に描かれたとされる絵画がサイオン・ハウスのレッド・ドロウイング・ルームに飾られています。次男のジェームスと一緒に描かれた絵は、画家ピーター・レリー<Peter Lely>の作品です。上の○で囲った絵です。(↓下は同じ絵)

チャールズ1世とジェームス(2世) 画像:Wikimedia Commons/Public Domain

この絵が制作された時には、画家も本人たちも、もうすぐ永遠の別れが来るとは想像していなかったかもしれません。そのせいか親子が対面できて嬉しいという感動的な瞬間という感じはなく、むしろ微妙~な親子関係が描かれているように思います。

何故なら、紙に何かを書きたいチャールズ1世に対し、腰に手を置き何か言いたげな息子ジェームスは、斜に構え横目でチラリと父親を見ながら、ペンが欲しいなら貸してあげますよ、とでも言うような表情で父を見ているように見えるからです。

息子の自分を見る目と若干偉そうな態度にタジタジとなった父チャールズ1世は、顔がこわばり若干腰が引けているようにも見えます。自分に対し、思うところがあるような息子ジェームスの態度にビビッて、彼の顔をまともに見ることが出来ず目が泳いでいます。

「お父様、あなた随分とやらかしてくれましたね。国王だったあなたは、今や囚人ですよ。僕たちは、この先どうなるのですか?あなたもですが…。」などと言いたげな息子ジェームスです。父に対する尊敬や信頼はもはや微妙な感じ。父に会えて嬉しいというよりもむしろ父を疑っているような印象を受けます。

国王から囚人となった父親の没落ぶりに飽きれ、少し距離が出来てしまった親子関係の一瞬を捉えたようなこの絵は、見れば見るほど面白い絵です。父親の権威失墜ぶりが伝わってきます。

このあと二人はどうなったか、私なりに勝手に想像してみました。

↓

囚人の身となった元国王の父親を、息子は相変わらず身体を斜に構えたまま横目で見ている

→息子は自分の手を伸ばしてペンを父に渡そうとはしない

→国王は仕方なく自分の手を伸ばして息子からペンをもらう

→紙に何かを書く

→息子は父親の書いている姿を、依然斜に構えたまま横目でチラリと見ている

→見られている国王落ち着かない

→しかし、自由の身でない父は時間もなく、とにかく書きたいことを頑張って書く

→書き終えて息子に紙を渡す

→息子は素っ気なくそれを受け取る。プリンスらしく礼儀正しく礼を言うと、さっさとその場から去ろうとする。

→プリンスらしく「またね!どうぞお父様、良い一日をお過ごしください!」と、礼儀正しく言って行ってしまう…。

→あぁ、行っちゃった…。息子ジェームスよ…。素っ気なさ過ぎじゃね?

こんな感じです。

もしかしたら、この日が最後の親子の対面になったかもしれないというのに、何とも言えない微妙な瞬間が絵として永遠に残ってしまいました。

画家Peter Lelyのセンスは、いかにもシニカルでイギリス的なのが嬉しい。

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脱獄失敗で島流し

そんなダメ父チャールズ1世が、またやらかしてしまいました。

ある日ハンプトン・コートからの脱獄を試みたチャールズ1世は、失敗してすぐに捕まってしまいました。

チャールズ1世は、子供たちに会えるハンプトン・コートからイギリス南西部にあるライト島のカリスブルック城<Carisbrooke Castle in Wight Island>へと島流しになってしまいました。

ジェームスとは、永遠の別れとなってしまいました。あ~あ。

最後に会った子供たち

1649年、一向に議会に譲歩する態度を見せないチャールズ1世は、裁判にかけられることになり、その結果国家反逆罪で有罪(死刑)を宣告されてしまいます。

処刑の日までに3日間の猶予しか与えられませんでした。

処刑の前日、ロンドンのホワイトホール・パレスに移送されていたチャールズ1世は、9人の子供たちのうちの最年少の2人ヘンリー <Henry, Duke of Gloucester (9) >とエリザベス王女 <Princess Elizabeth (11) >と対面しました。

チャールズ1世は、自分の死を悲しまないように、長兄チャールズ(2世)に従うように、と最後に2人に伝えました。

父ともう二度と会えないことを悟ったエリザベスは激しく泣きじゃくりました。彼女はその夜、その日のことを日記にしたためました。父からいわれた言葉は

’ Sweetheart, you will forget this’「愛しい人よ、このことは忘れるんだよ」

でした。

チャールズ1世は、翌日潔く斬首刑に処されました。

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★サイオン・ハウスに行ってみよう! Syon House and Park Info.

☆エステート内に、ヒルトン・ホテル、トラウト・フィッシング、コンサーバトリー、ガーデン・センター、森林学校、カフェ&ショップなどいろいろ施設あり。

 最寄り駅は、ロンドン市内を走るDistrict線Stamford Brook駅。そこから237番のバスに乗りBrent Leaで下車。そこから徒歩10分。