
天才音楽家モーツァルトが神童と呼ばれた子供時代、父に連れられその才能を披露し世に認めてもらうべく、ヨーロッパ中をグランド・ツアーで回ったのは有名な話。
私は最近まで知らなかったのですが、モーツァルト一家はそのグランド・ツアーで、何と意外なことに⁉ここロンドンにも立ち寄っていたそうなんです。
色々エピソードもあるみたいで・・・。
ということで、今回はモーツァルト一家が暮らしたロンドンの家を訪れ、ロンドンでの暮らしぶりをレポートしてみたいと思います。
Contents :
天才児モーツァルトを連れて「グランド・ツアー」へ
自身も作曲家だったモーツァルトの父レオポルドは、自分の息子モーツァルトが類まれな音楽の才能を持つ天才児だと気付くと、彼の宮廷音楽家としての大成功を夢見て地元サルツブルグを離れ、一家で各国を回り王宮で演奏する機会を得るためのグランド・ツアーに出掛けました。この時モーツァルトはまだ8歳でした。
ある時フランスの宮廷でモーツァルトの才能を売り込んでいると、2人の英国人にロンドン行きを勧められました。当時のロンドンは、ヨーロッパで最も栄えた都市になっていました。裕福な都市ロンドンには優れた音楽家たちも集まり活躍していました。当初ロンドンは視野に入れていなかったモーツァルト一家ですが、期待を胸にイギリス・ロンドンに立ち寄ることにしました。(1764年)
この時モーツァルトは8歳。パリからの船旅で、生まれて初めて海を見たそうです。船酔いで何度も吐いてしまったそうです。

1764年4月23日、ロンドンに着くと、一家はコベント・ガーデンにほど近いセシル・コートに家を見つけました。今は古書店やアンティーク・ショップが集まるこの通りにあった床屋の上に宿を借り、ロンドンでの生活が始まりました。願わくば、ジョージ3世の宮廷音楽家に・・・。

©楓香

フランス宮廷からの紹介状が功を奏し、ロンドン上陸からたったの5日で、国王ジョージ3世とシャーロット王妃に呼び出され、姉と2人、国王らの前で連弾を演奏することが出来ました。
実はこの紹介状、ジョージ3世の”いわゆる”トイレ係<The Groom of the Stool>のところに届いたそうです。国王のトイレ係は、宮廷の中でもトップ・ジョブの一つで、誰もがなりたがるポジションでした。何故なら、国王のプライベートに最も近いところにいるので、取次ぎを通さずとも直接国王と言葉を交わすことができ、さりげなく会話をしながらも国王の思想・判断に少なからず影響を及ぼすことができるポジションだったからです。
モーツァルトと姉マリア・アンナ(Maria Anna 12歳)は、国王夫妻の前でバッハやヘンデルを演奏したそうです。演奏を聴いた人々は、子供たちの弾く美しい旋律にとても驚いたそうで、演奏会は大成功でした。
ロンドン滞在の滑り出しは順調でした。モーツァルトは当時ロンドンのハイソサエティの間で最もファッショナブルな遊興施設だったボクソール<Vauxhall>で演奏する機会も得ました。
ところが、ロンドン上陸から3か月ほど経った7月始め、父レオポルドが病に倒れると、一家の運命は急変してしまいました。
モーツァルトの才能を売り込もうとプロモーションを始めたのは父レオポルド。その父の売り込みなくしては、まだ8歳のモーツァルトにはなすすべがありません。演奏会はなくなり、モーツァルトの才能は披露する機会を失ってしまいました。
セシル・コート: Cecil Court, London, WC2N 4HE
暇つぶしに作曲を始める

一家は、父レオポルドの回復のために、当時はロンドン郊外の田舎だったベルグレイヴィア<Belgravia>に引っ越しを余儀なくされました。(1764年8月6日)


演奏の機会を失い、家でも父の病気療養のために楽器演奏が禁止されていたモーツァルトは、姉の回顧によると、暇つぶしのために作曲を始めたのだそうです。この時、オーケストラの演奏に感銘を受けていたモーツァルトは、シンフォニー曲を初めて作曲しました。
完成したのは「Symphony No.1 K. 16 in E flat major」という曲。聴いてみてください。とても8歳の子供が頭の中だけで作曲したとは思えない出来映えです。やはり神懸っているモーツァルト。
翌年1765年2月、モーツァルトはこの曲をHaymarket Little Theatre(トラファルガー広場とピカデリー・サーカスの間あたり)にて発表しました。
ところが、、8歳の子供が作曲したことに対する疑惑の声が沸き上がり・・・。子供に見えるモーツァルトは本当は大人なのでないか(つまり、成長障害など)、実は父レオポルドが作曲しているではないか、などという疑惑です。

王室の機関<Royal Society>から派遣された人物が、モーツァルトの才能が本物かどうかを判定するためにやって来ました。楽譜を視唱する、鍵盤に布をかけた状態で演奏する、目隠しをして演奏する、などいくつかのテストが行われました。本当にまだ8歳の子供だったモーツァルトは、テストの途中で飼い猫に気を取られて遊び始めてしまったそうです。
判定の結果、モーツァルトは生まれながらの天才児であるという結論に至りました。
それから間もなくして、シャーロット王妃(Bridgertonのシャーロット王妃のモデルはこの人)に依頼され、モーツァルトは6曲のソナタを作曲し報酬を得ました。
ベルグレイヴィアの家: 180 Ebury St., London, SW1W 8UP
宮廷音楽家への道は・・・


父レオポルドの体調が戻ると、一家は再びロンドン中心部(20 Frith Street、国立肖像画美術館近く)に移り住みました。(1764年9月)
しかし、タイミング悪く表舞台から姿を消してしまった代償は大きかったようです。人々の天才児モーツァルトへの関心は既に薄れてしまっていて、ジョージ3世の宮廷音楽家になるという希望は、もはや実現が不可能な状態になっていました。
一家の収入源として、父レオポルドはランチタイムのパブで、お金をとってモーツァルトにピアノを演奏させることにしました。
パブでの演奏など、ヨーロッパの他の都市では考えられなかったことです。当時の音楽家たちは王侯貴族や教会に雇われ、彼らのために作曲していました。一方、当時のロンドンでは、裕福になった商人たちが演奏会のパトロンになり、公共コンサートを開くことが珍しいことではなかったのです。
「Swan and Hoop Pub」というMoorgate近くにあったパブで、モーツァルトはほぼ毎日ランチタイム(12-15)にピアノを演奏したそうです。この頃の父レオポルドは天才の息子モーツァルトの才能をハイソサエティで生かすことに失敗しただけでなく、息子のマネージャー兼プロモーターとして息子を日銭を稼ぐ「金のなる木」として働かせるだけの親となっていました。
しかし、モーツァルトの才能を無駄にするそんな生活にも見切りをつけ、一家はロンドンをあとにすることにしました。一家は翌年1765年7月24日ロンドンを去り、サルツブルグに戻りました。こうして、収穫を得ないまま、モーツァルト一家の短いロンドン滞在が終わりました。


ソーホーの家 : 20 Frith Street, London, W1D 4RN
モーツァルトのロンドン時代をまとめてみました。
映画「アマデウス」で流れるフルートの音色を聴いて、すぐに亡き夫が生前弾いたものだとわかったというご婦人が知り合いにいます。イギリスではかなり有名な方です。改めて聞いてみましたが、心に染み入るとても素晴らしい演奏でした。美しい曲、その美しさを完璧に再現してくれる奏者がいて私たちはDivine(神聖)な音楽を耳にすることが出来るのだと気付きました。
映画「アマデウス」、NetflixやAmazonプライムなどでなかなか配信されず、しばらく観ていませんが、配信されたら見逃さずに視聴したいと思っています。
モーツァルトは天才であったにもかかわらず、仕事には恵まれず音楽家として収入面でも待遇面でも成功したとは言えませんでした。アップダウンの激しい経済状況にもがいていました。自分の才能にあまりに自身があり謙虚でなかったため、上流社会で上手くやっていけなかったのも原因と言われています。でも不遇な中でもひとたび作曲すると他の作曲家が嫉妬するほど卓越した音楽の才能を発揮したこと、彼の生い立ちや苦悩した人生など、それらすべてが彼を「天才音楽家」にしたのかもしれません。
ところで、同じように芸術家として大成する才能を持っていながらも、生きているうちは絵が一枚しか売れなかったヴァン・ゴッホですが、彼も一時期ロンドンに住んでいたことを知りました。意外なことに、彼はモーツァルトとは対照的に、ロンドンで暮らした1年間はとても楽しく充実した時間だったようです。それは画家ではなかったからかもしれません。
ゴッホのロンドンの家も訪ねてみました。⇩