2022年9月8日、エリザベス女王崩御に伴ってチャールズ皇太子が「チャールズ3世」として新しいイギリスの君主となりました。
同時に、王位継承権が1つずつ繰り上がって、ウィリアム王子は現在王位継承権第1位の「ウィリアム皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)<William Prince of Wales>」になりました。
既定路線では、チャールズ3世の次は、ウィリアム皇太子が国王になります。
では、そうなった時ウィリアム皇太子は「ウィリアム何世」を名乗ることになるのでしょうか?
ということで、歴代の国王ウィリアムをまとめてみました。
因みに、故エリザベス女王の父ジョージ6世は、アルバートという名前でしたが即位した時ジョージを名乗りました。ここでは、ウィリアム皇太子が「国王ウィリアム○世」になると仮定して、見ていきたいと思います♡
Contents:
早速ですが、ウィリアム1世👑がいました
|初代ウィリアムはフランス貴族

なんと1代目は、いわゆるイギリスの初代王(数え方による)とされている「ウィリアム征服王(William the Conqueror)」です!
この王は、イギリスを征服するため、フランスからやってきたフランス貴族です。
当時イギリスは前国王の死去後、妻である女王が治めていました。が、弱肉強食の時代、国王の不在を狙って天下を取ろうとする血縁者同士の争いが勃発していました。
ウィリアムもその一人として参戦しました。ウィリアムはフランスで育てられましたが、前国王と血縁関係にあり王位継承を主張できる立場ではありました。また、彼は前国王から後継に指名されたと主張していました。
しかし、この時代は戦いに勝利しなければやはり王にはなれません。そこで、イギリスの王になるべく、軍隊を引き連れフランスから海を越えてやってきて、イギリスを征服することに成功したのです。(1066年)
それ故に、彼は「ウィリアム征服王」と呼ばれているのです。
|ウィンザー城もロンドン塔も実はフランス様式

アイコニックな王室の施設ロンドン塔の「ホワイト・タワー」や「ウィンザー城」は、彼の統治時代に出身地フランスのノルマンディー地方の建築様式で建てられたものです。
イギリスの重い赤煉瓦の建物とは明らかに外観が違います。

ウィンザー城などは、1000年経った今でも王室のレジデンスとして使用されていることに驚きます。
イギリスを征服したウィリアムは、フランス人であったためにイギリス人からの報復を常に恐れていました。ロンドン塔もウィンザー城も身を守るための要塞として建てられたものです。高い城壁に囲まれ、建物には矢を放つための長細い隙間がたくさんあります。そしてどちらも交通の要、テムズ川沿いに建っています。
|フランス語による支配
彼がイギリスを征服するにあたり、引き連れてきた軍隊や貴族たちは皆フランス人です。
ウィリアムの征服後、イギリスでは暫くの間フランス語による支配が行われました。
ウィリアム2世👑
次に、ウィリアム征服王(1世)の息子(3男)が「ウィリアム2世」として王位を継承しました。
残念ながら、イメージ(画像)は残っていませんが、Rufas, the Red Kingと呼ばれ、赤ら顔の王だったそうです。
彼は父ウィリアムのお気に入りだったそうですが、とにかく傲慢で評判の悪い王だったようです。New Forestでの狩猟中に不審な死を遂げました。
ウィリアム3世👑
|ウィリアム3世はオランダ総督

初代ウィリアム王から600年以上経って、「ウィリアム3世」が誕生しました。
しかし、この人もイギリス人ではありませんでした。オランダ総督プリンス・オブ・オレンジといって、オランダ人でした。彼は、当時イギリスの国王だった「ジェームス2世」の娘でいとこにあたるメアリーと結婚していました。
|名誉革命
オランダ人の彼がイギリスの王になったのは、世界史で習った「名誉革命<Gloriouse revolution>」(1688年)が関係しています。
イギリスは、1世紀前のヘンリー8世の時代に、カソリックからプロテスタントに国教を変えていました。ところが、前王で兄であるチャールズ2世が世継ぎを作らずに死亡。そのあと国王になったスペアの弟ジェームス2世はカソリック教徒でした。
イギリスには、君主の宗教が変わる度、激しい宗教弾圧が起こった歴史がありました。
日本では考えられないことなのですが、同じキリスト教でも宗派の違いは対立と憎悪を生み、君主の暗殺計画や異教徒の大量処刑、国家規模では教会が支援して戦争を促すなどとても危険なことなのでした。
しかし議会はジェームス2世の治世を長くは続かないだろうとみなして、彼の治世が早く終わるのを待つ姿勢でいました。あとにはチャールズ2世の意向でプロテスタント教徒として育てられたジェームス2世の前妻との2人の子供メアリーとアンが控えていました。
ところが、ジェームス2世はイギリスをカソリック教国に戻そうと改革を始めてしまいました。更には王妃との間に王位継承者となる男児まで生まれてしまいました。
この男子誕生が決定打となり、宗教対立による国の混乱を懸念した議会はオランダに住むジェームス2世の長女夫婦(メアリーとウィリアム。プロテスタント)にイギリスに攻め入るよう依頼したのです。

メアリーの夫ウィリアムは、当時最もパワーのあるプロテスタントのリーダーでした。
メアリーと夫のウィリアムは、議会のバック・アップを受けて、意気揚々とイギリスに攻め入りました。
すると、議会のサポート(軍のサポートも)を失ったことを悟った父のジェームス2世は、娘夫婦との争いを避けて、フランスへと亡命したのです。

こうして、オランダ人のウィリアムは、妻メアリーと共に「メアリー2世」「ウィリアム3世」としてイギリスで即位することになりましたした。ふたりはイギリス王室史上初めてジョイントで即位(共同統治)した君主となりました。
この時、王権の移行が流血を伴わずに行われたので、のちに「名誉革命(Glorious Revolution)」と呼ばれるようになりました。
この名誉革命以降、プロテスタント教徒でなければイギリスの君主にはなれないということが法律で定められました。
|ウィリアム3世夫妻の住まいはハンプトン・コート宮殿

ウィリアム3世とメアリー2世は、ロンドン郊外のハンプトン・コート宮殿を主な住まいとしました。
ハンプトン・コート宮殿はチューダー時代にヘンリー8世が住んだ宮殿として有名ですが、実は、ウィリアム3世がフランスのベルサイユ宮殿をモデルに一部を増改築しています。建築家はあのセント・ポール大聖堂を建てたクリストファー・レン(Christopher Wren)です。
当時は予算がなかったそうで、ベルサイユ宮殿のように豪華な宮殿にはなりませんでしたが、壁面と天井の絵画が見事なKing’s(Queen’s) Staircase(大階段)や武器が壁面にずらっと並べられた King’s Guards Chamber(王の衛兵の間) や謁見の間などは素晴らしく、見所いっぱいの宮殿です。特にウィリアム3世が増改築した建物のファサードは、映画・ドラマの撮影にもよく使用されています。
何度行っても飽きないハンプトン・コートは私の一番好きな宮殿でもあります。ハンプトン・コート宮殿は、ヘンリー8世のアパートメント、ウィリアム3世&メアリー2世とアン女王のアパートメント、ジョージ2世のアパートメントと、3つの王朝の建物と庭園が一箇所で見られるとても珍しく、かつお得な宮殿です。とても楽しくて、もう10回以上は訪れています。
入場料が結構高くなってしまったので、最近またHRP(Historic Royal Palaces)のメンバーになろうかな、と考えています。メンバーになると、ハンプトン・コート宮殿やケンジントン・パレス、ロンドン塔などが何度でも自由に入場できます。
さて、ウィリアムという名前の国王は、まだいました。続きは②で。
* * * * * * * * * * *
★ウィンザー城、ロンドン塔、ハンプトンコート宮殿 Info.
☆ロンドン塔(Historic Royal Palaces)
Tower of London | Historic Royal Palaces (hrp.org.uk)
☆ウィンザー城(Royal Collection Trust)
☆ハンプトン・コート宮殿(Historic Royal Palaces)
Hampton Court Palace | Historic Royal Palaces (hrp.org.uk)
\ウィリアム3世とメアリー2世が暮らしたハンプトン・コート宮殿/
\王室関連の建物を多数建築クリストファー・レン関連記事/