2022年9月8日にエリザベス女王が崩御されました。そして、史上最も長い期間皇太子として過ごしたチャールズがようやく国王になり、「チャールズ3世」として即位しました。
「チャールズ3世」になったのは、ファーストネームの「チャールズ」をそのまま使ったのと、「チャールズ」という名前では王室史上3番目の国王だったから。
でも、実は彼は「チャールズ3世」を名乗りたくなかったと言われています。何故でしょう。
それを知るために、「チャールズ1世」と「チャールズ2世」について、どんな王様だったのかをみていきたいと思います。
Contents :
チャールズ1世👑
|スペアだったチャールズ1世

「チャールズ1世」はエリザベス1世の死去後、王位継承者としてスコットランド王室からやってきた父王「ジェームス6世(1世)」の次男として1600年11月19日に誕生しました。病弱で身長は150㎝程しかなく、2歳(5歳説も)になるまで歩くことができない子供だったそうです。
勉学・スポーツ・人格に優れゴールデン・ボーイと言われた父のお気に入りの長男は、18歳で亡くなってしまいました。そこで、スペアである彼が王位を継承することになったのです。
父ジェームス6世(1世)はあまり出来が良くない次男チャールズをとても嫌悪していて、彼が王位継承者となったことでとても機嫌が悪かったといいます。(今のイギリス王室でも、次男坊は悩みの種ですね...アンドリュー&ヘンリー…)
父ジェームス6世(1世)が1626年2月2日に亡くなると、「チャールズ1世」として即位しました。
|「王権神授説」を信奉するあまり・・・

子供の頃は残念な息子だったかもしれませんが、チャールズ1世は非常に道徳的で紳士で上品な人物だと言われています。フランスの王女ヘンリエッタ・マリアと結婚すると、9人の子供をもうけ、彼らの良き父であり、良き夫でもありました。
しかしながら、王としては議会と上手くやっていくことが出来ず、衝突を繰り返していました。
誇り高いスコットランド王室スチュアート家の彼は、父から’Divine right of Kings’ (「王は神によって選ばれ、神だけが王を支配できる」) 『王権神授説』という信奉を受け継いでいました。それ故、自分の意に沿わない議会の決定に従うことなどあり得なかったのです。
また、プライベートでは素晴らしい人格者だったチャールズ1世も、公では傲慢不遜、横柄な態度をとっていました。実はこれは自信のなさや恥ずかしさの裏返しだったのですが、この態度は議会のメンバーを敵に回す原因にもなっていました。
思い通りにならない議会に対し、チャールズ1世は1642年8月、とうとう兵を挙げ実力行使に出てしまいます。「市民戦争」の勃発です。最初の2年ほどはチャールズ1世率いる「王党派」軍の勝利が続いていましたが、やがて新戦術で台頭してきたオリバー・クロムウェル率いる「議会派」軍があちこちで勝利を収めるようになり、1646年に遂に「王党派」の敗戦が決定的になりました。
チャールズ1世はオリバー・クロムウェルによって捕らえられました。国王から囚人となり、幽閉生活を送ることとなりました。
|オリバー・クロムウェルの「清教徒革命」
1649年1月20日、裁判が始まりました。
裁判は、オリバー・クロムウェル主導で進められました。「チャールズ1世」は「王」を裁こうとする裁判にまともに取り合おうとしませんでした。
しかし裁判は進められ、1週間後の27日、判決が言い渡されました。

‘ He should be put to death by the severing of his head from his body’ (斬首による死刑が相当)
国家反逆罪での有罪が宣告され、処刑命令が下されました。
実は彼が起こした市民戦争は、イギリス国内に200万人もの犠牲者を出していました。
裁判でチャールズ1世は ‘tyrant, traitor, murderer and public enemy’ (暴君、反逆者、殺人者、市民の敵) だとされました。
判決からたったの3日後に、国王チャールズ1世は処刑となりました。イギリス王室史上唯一の国王の処刑(斬首)となりました。(1649.1.30)
イギリスは王を失い「君主制」が廃止されました。そして、オリバー・クロムウェルを護国卿とする「共和制」が始まりました。
これを、『清教徒革命』と呼んでいます。
\チャールズ1世の処刑に関する過去記事/
チャールズ2世👑
|オランダで亡命生活を送る
「チャールズ2世」は、清教徒革命でクロムウェルによって殺害された「チャールズ1世」の長男として生まれました。
市民戦争が始まるとすぐに、彼はオランダに亡命しました。(母はフランスに亡命)
そこで、祖国イギリスへの帰国と王政の復帰の時を待っていました。
護国卿となったピューリタン、オリバー・クロムウェルの統治は国民をガッカリさせるものでした。
彼は、市民生活からあらゆる楽しみを奪っていきました。劇場や遊戯場を取り壊し、娯楽の一切を市民から取り上げました。クリスマスなどの宗教行事も華やかに行う事を禁止しました。

「君主制」を嫌い「共和制」へと転換させたクロムウェルですが、「護国卿」と名乗り国の最高の地位を手にすると、たちまち独裁者へと変貌していきました。
あたかも自分が新しい「王」であるかのように振る舞い、戴冠式めいたことを行わせ、王宮や城に住み、恐怖政治を敷きました。
挙句の果てには、自身の不出来でぼんくらな息子リチャードに護国卿の身分を継承させました。これには国民も議会も黙ってはいませんでした。自分の子供に(護国卿の)身分を継承させるのなら、国王の王位継承と同じではないか?オリバー・クロムウェルは国王なのか?
次第に本物の王の復帰を望む声が大きくなっていきました。
|王政復古<Restration>の王様

議会はクロムウェルの愚息から護国卿の身分を取り上げ、チャールズ(2世)を亡命先のオランダから呼び寄せ、国王として迎えることにしました。
チャールズ2世は、1660.4.4、オランダのブレダから「ブレダ宣言」を発して王位復帰を宣言しました。英議会はこれを受け、1660.5.1、チャールズ2世の王位復帰を受諾。
こうしてチャールズ2世は、イギリスに国王として戻ってくることになりました。国王となったチャールズ2世は、5月30日、ちょうど30歳の誕生日と重なった日、華々しくロンドン市内をパレードし『王政復古』で国民を喜ばせました。
|王権の象徴「レガリア」を新調
さて、新国王として神に誓う儀式「戴冠式(コロネーション)」が待っていました。
ところが、華々しいものをことごとく破壊していったトーマス・クロムウェルは、王室が代々所有する貴重な財産である「レガリア(王笏と宝珠)」さえも例外なく破壊してしまっていました。
新国王が戴冠式の時だけ使用するレガリア(王笏と宝珠)は、「王権の象徴」です。
チャールズ2世は、自分の戴冠式のために新たにレガリアを発注しなければなりませんでした。肖像画の中で使用されているレガリアは、この時に新調したものです。以降の君主はみなこの絵と同じレガリアを戴冠式で使用しています。
|父「チャールズ1世」処刑のリベンジを果たす

国王になると、自分の王位復帰に尽力したものに褒美を与える一方、父「チャールズ1世」の処刑に加担したものへの「復讐」を忘れてはいませんでした。
父の処刑を承認する書類にサインした者たちは次々に処刑されました。
オリバー・クロムウェルと死刑判決を宣告した裁判長のジョン・ブラッドショーの二人はこの時既に死亡しておりウェストミンスター寺院に埋葬されていましたが、ふたりの遺体は掘り起こされ、処刑地タイバーンへ運ばれました。チャールズ2世のウェストミンスター寺院での戴冠式の日(1661.4.23)に実行されました。
遺体は絞首刑にされたあと、四つ裂きにされ、頭部は切り落とされました。切り落とされた頭部はウェストミンスター・ホールの屋根にスパイクで突き刺し、長い間(25年ほど)放置され晒し物にされました。
|「オリバー・クロムウェル」像の先には「チャールズ1世」の像(頭)がある

ウェストミンスターに行くと、Parliament(国会議事堂)の敷地内に立っているオリバー・クロムウェルの像の先に、わざわざチャールズ1世の頭(像)を設置してあるのを見ることが出来ます。

クロムウェルの像は高い台座に乗った大変立派な像ですが、顔が正々堂々と正面を向いておらず、若干下向きです。
目の前にドーンと自分が殺したチャールズ1世の頭部像が設置されては、堂々と前を向くことなんてできませんよね。


「やべぇ~」って声が聞こえてきそうな気がするのは私だけでしょうか。引きつって困惑した表情…。面白いです。
イギリスらしいブラック・ユーモアを見せてもらって嬉しい限り。
でもこの表情(反省している)だから、立派な像を建ててもらいここにいるのが許されているのかもしれないですね。(本当は、歴史を繰り返さないように議会を尊重しようという意味があります…。国会議事堂です)
|「陽気な王様」芸術・文化・科学の発展を後押し
チャールズ2世の肖像画を見ると、まるでおとぎ話に出てくるような王様に見えます。いかにも「王様」な風貌の王は、後にも先にもこのチャールズ2世だけのような気がします。
チャールズ2世は、長かった亡命生活の反動で、華やかな宮廷生活を好みました。文化の発展を奨励し、芸術家のパトロンになりました。クロムウェルによって徹底的に破壊されたイギリス国民の娯楽を復興させました。この頃女性も演劇で活躍することが可能になりました。
チャールズ2世自身の努力により、イギリスは希望の持てる明るい世の中へと変わっていきました。


またチャールズ2世は科学にとても興味を持っていた王様でもありました。暗く抑圧された世の中からポジティブな空気に変わった彼の統治下では、自由な発想のもと科学が著しく発達しました。
アイザック・ニュートン(「万有引力の法則」)やロバート・ボイル(「ボイルの法則)」が現れ、才能を開花させました。世界時間の基準となるグリニッジ天文台はこの時代にできました。
一方で、チャールズ2世の在位中には、1665年に蔓延したペストや1666年にロンドンの大部分を焼失したロンドン大火という歴史的にも大きな二つの災難にも見舞われました。
しかしロンドン大火では、チャールズ2世自ら腕まくりをし、真っ黒になりながらバケツを持って、弟(のちのジェームス2世)と共に消火活動をしたというエピソードが残っています。
|愛人ネル・グウィン
チャールズ2世は、ものすごく女性好きな王様としても有名でした。愛人が何人も(そして、私生児が何人も!)いました。それをテーマにした映画もあるほどです。

最も有名な愛人がネル・グウィン(Nell Gwynne)です。
このネル・グウィンは私のブログで度々出てきます😅彼女は、いつも「Frozen(アナと雪の女王)」を上演しているコベント・ガーデンのシアター・ロイヤル<Theatre Royal Drury Lane>>のオレンジの売り子さんから女優になった女性です。
他の愛人と違って彼女は国王にかなり影響を与えたことで有名です。例えばチェルシーにあるロイヤル・ホスピタル<Royal Hospital Chelsea>は、彼女がチャールズ2世に助言したことによって建てられた英国の退役軍人のための老人ホームです。
彼女には、ロンドンのあちこちに、チャールズ2世によって与えられた家がありました。そのうちの一軒は、セント・ジェームス宮殿のすぐそばにあり、別のブログで訪れ紹介しています。(下にリンクあり)
チャールズ(元皇太子)は「チャールズ3世」になりたくなかった?
ということで、過去ふたりの「チャールズ国王」をまとめてみました。ふたりとも今から350年ほど昔、17-18世紀のスチュアート朝時代の王様でした。
随分久しぶりに「チャールズ国王」が誕生したことになります。
本題ですが、チャールズ3世は自分が国王になった時「チャールズ3世」を名乗りたくなかったと言われています。「チャールズ」ではなく、ミドルネームのジョージを使って「ジョージ7世」での即位を希望していたとか。
その理由は、きっと「チャールズ1世」ですね。

英王室の1000年の歴史の中で、唯一処刑されたのがこの初代チャールズなのですから。チャールズ3世の悲壮感漂うお顔はこの名前のせいかしらと思っていた時期もありました。
それにしても、何故エリザベスⅡ女王はあえて長男にチャールズと名付けたのでしょうか???ちょっと疑問です。
王族に付けないお名前リストには入ってなかったのでしょうか?
チャールズ2世で名誉挽回されたからなのかもしれませんが、ちょっと不思議に思ったりしています🤔
|王族に絶対付けない名前
、、、因みに、ジョン<JOHN>という名前は絶対に王族には付けません。
あとにも先にも、King John はただ一人です・・・
これからは、アンドリュー<Andrew>も禁忌になりそうですね…。ヘンリーはぎりぎり、セーフでしょうか…?
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