

コベント・ガーデンの両脇から伸びる2つの大きな通りに、King Street(キング・ストリート、地図上の黄色のライン)と Henrietta Street(ヘンリエッタ・ストリート、地図上のピンクのライン)という通りがあります。コベント・ガーデンに来たら、必ず歩く道です。人気ショップやレストランが並んでいます。

よくある通りの名前だと思って特に気も留めていなかったのですが、実は、このKing Street のKing とは、チャールズ1世( Charles Ⅰ )のことだということを最近知りました。なるほど、確かにHenrieta StreetのHenriettaとは、王妃の名前(ヘンリエッタ・マリア<Henrietta maria>)です。
王室史好きの私としてはワクワクしてきました🤩調べずにはいられません。国王チャールズ1世とこのコベント・ガーデンとの間に、どんな関係・歴史があったのでしょう。
Contents :
コベント・ガーデンの大地主だったベッドフォード公爵
|貿易商人から大貴族へ

このコベント・ガーデン辺り一帯は、その昔貴族のベッドフォード公爵家の所有地でした。
ベッドフォード公爵家は、元を辿れば初代ジョン・ラッセルという人物に辿り着きます。彼は1400-1500年代に生きたチューダー時代の人物です。そして、彼がこの土地を手に入れ、代々ラッセル家の所有地として相続されていったのです。
ジョン・ラッセルは、元々貴族ではなく、貿易商人でした。
仕事柄外国語が話せた彼は、ある時船で遭難した外国王族の通訳を務めたことで時の国王ヘンリー7世に請われ、宮廷で働くことになりました。頭もよく権力者に好かれる人物だったのでしょう。どんどん出世していきました。その息子の国王ヘンリー8世(チューダー朝、1500年前後)の時代、アン・ブリンとの結婚を目的に宗教改革を断行し、イギリス中の修道院を解体させた時期がありました。その時、破壊された修道院跡地や所属する土地などは一部、貴族に与えられました。コベント・ガーデンの土地はこの時に彼に与えられたものでした。
ヘンリー8世にも重用された彼は、伯爵(the Earl of Bedford)の爵位を与えられ貴族の仲間入りを果たしました。
その後もラッセル家の男性たちは代々の国王に仕え、宮廷において重要な役割を果たし生存競争を生き抜きました。スチュアート朝時代には、第5代ベッドフォード伯爵の息子が冤罪で処刑されるという事件がありましが、新しく王として迎えられたウィリアム3世によって冤罪が晴らされ、その償いとして公爵(the Duke of Bedford)の爵位が与えられることになりました。こうして、貴族としての最高位<公爵>にまで上り詰めたラッセル家でした。
商人から公爵(Duke)へ、見事に出世した強者一族です。羊飼いから伯爵(Earl)になったスペンサー家(ダイアナ妃の家系)と同じくらい立派ですね!
|マーケットにあるベッドフォード公爵家の紋章とモットー


コベント・ガーデンのマーケットの入口の壁面に、ベッドフォード公爵家の紋章が付いています。
地区の教会であるセント・ポール教会の門の上にも、公爵家の紋章が掲げられています。
ホタテ貝が3つと1歩足で立つ赤いライオンです。そして、トップには貴族の中で最高ランクの公爵家であることを表すクラウン(王冠)が付いています。
紋章の下にリボンが付いていますが、ここにはラッセル家のモットーが書かれています。
Che sera seraChe (ケ・セラ・セラ)(=なるようになるさ)
なるほど。
元々商人ですから、貴族になっただけでも大儲け。流れに任せよう!ということですね。
コベント・ガーデンの再開発
|時は国王チャールズ1世の時代

それから7-80年ほど経って、第4代ベッドフォード伯爵だったフランシス・ラッセルは、所有しているコベント・ガーデンの土地を再開発することにしました。
ところが、土地開発にあたっては当時の規制で、新しく建物を建てることが禁止されていることがわかりました。そこでフランシス・ラッセルは当時の国王チャールズ1世に掛け合い、£2,000の手数料を払って土地開発の許可を得ることにしました。


フランシス・ラッセルは、当代きっての人気建築家イニゴ・ジョーンズ(Inigo Jones)を採用し、Piazzaと呼ばれるマーケット前広場の周辺に高級住宅を建設すると、富裕層が集まってきました。
この時にフランシス・ラッセルが国王へのお礼の気持ちを込めて、Kingと王妃の名前Henriettaをコベント・ガーデンのメインストリートに付けたのが、通りの名前の由来です。
|コベント・ガーデンのオアシス「セント・ポール教会」

King StreetとHenrietta Steetの間に挟まれるように、セント・ポール教会があります。こちらもイニゴ・ジョーンズ(Inigo Jones)による建築です。
イニゴ・ジョーンズは王室御用達の建築家で、ホワイトホール(White Hall)にあるバンケティング・ハウス(Banqueting House)やグリニッジにあるクィーンズ・ハウス(Queen’s House)なども手掛けています。
この教会、実は観光客で騒々しいコベント・ガーデンの中にあって、喧騒から逃れられるちょっとしたオアシスとなっています。King StreetとHenrietta Streetの両通りからも入れるように幅1mほどの細い道が通っています。ここを通って中に入っていく人は案外少ないのです。
教会の中庭にはフラワー・ベッド(花壇)があり、ベンチがいくつも置いてあります。そこで静かに休憩をとったり、読書をしたりする人たちの人気のスポットになっています。
もちろん、イニゴ・ジョーンズ建築による教会も大変美しいので、コベント・ガーデンを訪れた際は、是非立ち寄ってみてください。教会とマーケットの間のPiazzaでは、大道芸人によるパフォーマンスも観られます。ロンドンではここだけです。
|コベントガーデン周辺の通りには公爵家の名前

所有地を開発したベッドフォード公爵家の名前も、もちろん付いています。
セント・ポール教会前の通り(地図上の紫色のライン)、つまりKing Street と Henrietta Street が突き当たる通りは、自分の公爵名をとって「ベッドフォード・ストリート(Bedford Street)」。
マーケットの反対側の通り(地図上の緑のライン)は、公爵家の家名ラッセル(Russell)からとって「ラッセル・ストリート(Russell Street)」。
因みに、King Streetの一本向こう側の隣りには、一時期コベントガーデンが花市場だったことから「Floral street」という名前になっています。
何気なく通っているところに、こんな歴史的背景があることを見つけると嬉しくなりますね。やっぱり歴史あるロンドンの街は奥が深く楽しいです❤
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🫖おまけのベッドフォード公爵家エピソード/アフタヌーン・ティ🫖
アフタヌーン・ティの習慣を作ったのもベッドフォード公爵家❣

今やイギリスの大集金マシーンとなった?アフタヌーン・ティというティ文化。これを作ったのも、ベッドフォード公爵家一族です。
ビクトリア時代、産業革命で国が富み、社会が近代化するにつれて人々は忙しくなり、晩餐の時間がどんどん遅くなっていきました。
第7代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセルの夫人アンナ・マリア・ラッセルは、夕方にはお腹が空いて気分も沈みがちになっていました。そこで、ランチとディナーの間に紅茶と軽食(パンとケーキなど)を自分の部屋に運ばせ、空腹を満たすようにしました。
アンナ・マリア・ラッセルは、ビクトリア女王の侍女でした。やがて彼女のアフタヌーン・ティの習慣は、宮廷の貴族階級の間に広まりました。
アフタヌーン・ティの誕生です。1840年頃のことでした。
やがてパンがサンドウィッチになりスコーンも加わって3段の専用プレートで提供されるようになりました。
\ベッドフォード公爵家の最初の家↓/