さて、前回に引き続き、ビクトリア&アルバート美術館(V&A)のBRITAINセクションを見学しています。
前回の記事はこちら⇩
前回訪れたv&aのミニチュア(ミニ・ポートレート)の展示室には、エリザベス1世からジェームス2世までの5人の君主たちのミニチュアや関連展示物がありました。そして、それらと共に王・女王たちのエピソードを思い出し歴史に浸りました。
展示室をさらに進むと、エリザベス1世以前とジェームス2世以降の王・女王たちのものが展示されていました。彼らを在位順につなげると、ちょうどチューダー朝からスチュアート朝まで繋がります。イギリス王室の歴史で、最も面白い時代1位と2位の王朝です。
Contents :
英王室史上最も面白い時代「チューダー<tUDOR>」
|ヘンリー7世

歴代国王の中でも特に有名な「ヘンリー8世」や「エリザベス1世」はチューダー王朝の国王・女王です。
そのチューダー王朝を作ったのが、ヘンリー8世の父であり、エリザベス1世の祖父にあたる「ヘンリー7世」です。
30年間に権力争いで4回も王が変わった激動の薔薇戦争時代、最後に天下を取ったのがこのヘンリー・チューダーでした。
その天下を取った戦いとは「ボズワースの戦い」。あのリチャード3世を下して、英国王となったのです。
この時の戦いで殺害されたリチャード3世の遺体は粗末に扱われ、きちんと葬られることなく行方不明になっていたのですが、数年前にレスターという街の役所の駐車場の下の土中で発見されました。先頃このリチャード3世の遺骨発見の物話が映画になりました。
この遺骨発掘時のドキュメンタリー番組を何度か見ましたが、すごく印象に残っていることがあります。それは、ちょうど遺体が埋まっていた場所の上に、「r」の文字があったことです!
上の胸像は、ヘンリー7世が亡くなった時のデスマスクから作ったものだそうです。
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|ヘンリー8世

ヘンリー7世の息子、スペアだった次男のヘンリーが王位を継ぎ、「ヘンリー8世」になりました。そう、スペアだったのです。現在もいますよね、ヘンリーという名のスペア君…。
ヘンリー8世の話は面白いですよ~。彼のお陰で歴史好きになったと言っても過言ではありません。
是非機会があったら、このドラマ「ザ・チューダーズ(The Tudors)」をご覧になってみてください。シリーズ4まであります。Netflix, amazon prime, apple TV, Rakuten などで放映したりしなかったりしてますので、チェックしてみてください。(是非字幕で!オリジナルの音声でご覧になった方がしっくりきます。)ヘンリー・カヴィルも出ています!
ヘンリー8世には、6人の妻がいました。彼女たちの運命は順番に、
「Divorced, beheaded, died, divorced, beheaded, survived」 でした。
「離婚、打ち首、死亡、離婚、打ち首、生き残り」です。
暴君です。
6度も結婚したのは、Male Heir(男子の王位継承者)とそのスペアが欲しかったから。チューダー朝はまだ自分で2代目、ヘンリーは男子の後継者をたくさん作って、王朝の継続を確保したかったのです。
|エドワード6世

しかしこの暴君ヘンリー8世、罰が当たったのか6人の女性と結婚しながら、生まれた男子は結局のちのエドワード6世ただ一人でした。彼は、9歳で王位を継承しましたが、15歳で亡くなってしまいました。治世はわずかに6年、これで男子の王位継承者は途絶えました。
エドワード6世の母は、ヘンリー8世の3番目の妻ジェーン・シーモア(Jane Seymour)。彼女は3日掛けて難産の末にエドワードを出産しましたが、12日後に出産時の感染症で死亡してしまいました。
のちにヘンリー8世が家族の肖像画を描かせたとき、ジェーンとエドワードの3人が並んだ姿で描かせています。未来の王の母君だからです。そして自身の死亡後は、ウィンザー城のセント・ジョージ教会の床下に、先に埋葬されたジェーンの棺と並んで自分の遺体を埋葬させました。
|エリザベス1世

エリザベス1世の母アン・ブリン(Anne boleyn)は、トーマス・クロムウェルが捏造した罪で有罪とされ、ヘンリー8世によって処刑されました。その時まだ2歳半だったエリザベスは、王の正式な子供ではなく私生児にされてしまいました。国王の血を引くエリザベスは追放こそされませんでしたが、不遇な子供時代を過ごしました。
6人もの妻を娶った父のヘンリー8世でしたが、生まれた子供は3人だけ。エリザベスと最初の妻との間に生まれていたメアリー(彼女も私生児扱い)と3番目の妻との間に生まれた前述のエドワードでした。
弟のエドワード6世が15歳で亡くなると、他に男子の血縁者がいなかったチューダー王朝は、結局女子の長女メアリーに引き継がれることになりました。メアリーは、イギリスで最初の女王になりました。ですが、メアリーもわずか5年ほどの治世で子供を持たずに病死すると、エリザベスがそのあとを継いで女王になりました。
「エリザベス1世」の誕生です。
エリザベス1世は、名実ともに国王として君臨するために、決して結婚をしませんでした。彼女は、チューダーの時代において、結婚すれば男子である夫が実質上国王となり自分の権力を上回ることを知っていたからです。そうなった時には、父ヘンリー8世が妻たちにしたように、自分の命が脅かされる危険があることを、生い立ちから十分理解していたのです。
結婚せず、子供がいなかったエリザベスは、死の間際、スコットランドの王ジェームス6世を後継に指名しました。ジェームス6世が、英国王ヘンリー7世の娘マーガレットの孫にあたる存在だったからです。
\エリザベス1世に処刑されたジェームス6世の母/
国王受難の時代「スチュアート王朝<STUART>」
・メアリー2世とウィリアム3世

続いて、スチュアート朝時代の国王たちの展示品へ。
オランダで発行された「メアリー2世とウィリアム3世」の戴冠を祝うオランダでのパレードの様子を描いたエッチングが展示してありました。
メアリー2世はイギリスの国王ジェームス2世の長女で、オランダのオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)に嫁いでいました。
その二人がイギリスで君主になったのは、あの世界史で習った「名誉革命」が関係しています。
「名誉革命」は、いわば宗教による天下取りで、カソリックとプロテスタントの天下取りをプロテスタントが制した革命です。
イギリスはヘンリー8世の時代にローマ・カソリック教会を離脱しプロテスタントの国へと転換を図りました。一時メアリー1世によるカソリック支配の時代がありましたが、それ以外はずっとプロテスタントの君主による統治が行われていました。
ところが、先代チャールズ2世に子供がいなかったため、スペアの弟ジェームスがジェームス2世として即位すると再び宗教問題が勃発。彼は王族にもかかわらずカソリックに改宗していたのです。
宗教対立によって再び不穏な世の中になることに危機感を抱いた議会は、ジェームス2世を追い出し、プロテスタントとして育てられていた娘のメアリー(夫ウィリアムもプロテスタント)夫婦を呼び寄せて、イギリスを統治してもらおうとしたのです。
議会は娘メアリーと夫ウィリアムにイギリスに侵攻するよう依頼しました。議会のサポートとバックアップを受け、イギリスに攻め入った娘メアリーとウィリアムのオランダ軍を見て、父ジェームス2世は戦いを避け、フランスに亡命しました。
ジェームス2世の亡命によって流血を伴わずに王位の移譲が行われたので「名誉革命(Glorious Revolution」と呼ばれることになったのです。
2人は、「メアリー2世」「ウィリアム3世」として共同でイギリスを統治しました。オランダでも歓迎されたのは、オランダもプロテスタントの国だったからです。彼らがイギリスの君主となることによって、カソリックのフランスに対抗する同盟関係が強固されたので大歓迎されたのです。
\ウィリアム3世関連記事/
王位継承ラインをまとめ
前回と今回で、チューダー朝からスチュアート朝までの王位継承ラインが繋がりました!まとめてみようと思います!
(今回)ヘンリー7世➡️ヘンリー8世➡️エドワード6世➡️メアリー1世➡️エリザベス1世➡
(前回)ジェームス1世➡チャールズ1世➡チャールズ2世➡ ジェームス2世➡️
(今回)メアリー2世&ウィリアム3世
いや~、V&Aもなかなか楽しかったです🩷
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★ビクトリア&アルバート美術館<Victoria &Albert museum> Info.
Hp ; The family of art, design and performance museums · V&A (vam.ac.uk)
アドレス: ヴィクトリア&アルバート博物館 – Google マップ